昭和四十八年七月五日 朝の御理解
x御理解第五十九節 
「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ」


 今お聞き頂いた通りのことですが、ここに、信心に通うて見える皆さんが、習うたことを覚えておって、おかげにしておられることはどういうことだろうか。銘々のところで、これだけは頂いた、これだけは覚えさして頂いた。覚えたというても、それが金光大神も喜び氏子も喜びということ。同時に、神も喜び、そういう喜びにつながる程しのおかげ、言わば、そういうおかげの頂ける程しの御教え、それを自分のものに、どれだけ頂いておるかということ。そういうですね、この御教えは。
 そこで、私どもがこうやって御教えを拝聴させて頂いて、そうして私は大体どこを頂いておるだろうか。「神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ」と仰るようなおかげを、果たして、永年信心の稽古をしておるが、頂いておるだろうか、どこを覚えたであろうか、こう自問自答して見ねばいけないと思うですね。毎日毎日、随分御教えも頂いて、いろいろ深く広く、また一日、成程そうだと合点さして頂けれる、御教えを頂いておる。習うたことを忘れずに自分のものに、言うなら血肉に、どれだけのことが出来ておるだろうか。
 そこでです、私はその前の第五十八節を読んでみたいと思う。
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ている。しっかり信心の帯をせよ」 腹を立てるな、例えばどんな場合であっても、腹を立てるな。腹を立てては馬鹿らしい。おかげに直接響いて来るんだと、この御教えをあらゆる角度から、いろいろに頂いておりますね。ところが果たして、お互いの、覚えとって、これを本当に自分のものにしておると言う人が何人あるだろうか。
 例えば、この五十九節、五十八節とならんでおりますから、その一言だけでもです、習うたこと覚えておって、しかもそれが、「神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜び」といったような、おかげにつながっておらねば駄目なんです、知っとるだけでは。
 御教えには、泥棒と言われても、乞食と言われても腹を立ててはならんということは、どんなにひどいことを言われても、されてもということなんです。ことだと思うんです。この一つでも、未だ覚えてはいないということ。私は、頂いたことに撤することが信心だと思うんです。
 改めて頂いてみるとです、本当に覚えたことを、いわゆる、血肉にしておるということのおろそかであることを、改めてお互い、気が付くだろうと思うです。しかも、そういう例えば、腹立ち、腹を立てねばおられないような場合にです、それを黙って受けるというだけでなくて、そこから一段と信心を進めて行けとある。信心の帯を締め直して行けと。
 だからそれを甘受する、黙って受けるというだけでなくてね、そういう、例えば、言うならば、難儀を感じた場合です、腹の立つような問題があった場合、その都度都度に、自分の信心の帯というものが締め上げられねばならんということをです、まあいろんな角度から、どれ程頂いて来たかわからない。
 ひとつ、私は、私ども、これを覚えとるおかげで、もうこれをひとつ覚えておるおかげで、こんな場合こういうおかげを頂くと、という何とかをね、持たなければ、頂かねばならない。それはそのまま、金光大神も喜んで下さり、神も喜んで下さるというおかげにつながる程しのものをです、真剣に身につけなければいけません。習うたことを覚えておって、だから、習うたことを知っておっても、それを使わないというか、それを表さないならば、それは言うならば、「論説読みの論説知らず」ということになるわけですね。
 一つ皆さん、これだけは自分のものになっておると、まあいろいろありますよね。ここで、もう絶対の信条のように言われる、いろんな行き方が、そういうものが、私は改めて、自分の血肉になって行きよるかどうかということ、という修行に取り組んでおるかということだけでもよいから、ひとつ思うてみらにゃいけません。
 昨日は、神愛会でしたから、先生方みんな信心の研修をさして頂きました。先生方の場合は、直接難儀な氏子が取次ぎ助けられなければならない。お取次をさして頂くという場にあるのですから、いろいろの話の中に申しました。
 先日から若先生がここに紙に書いておった。「腹を立てない。愚痴を言わない」ということ。人間が、本当の極楽というのは、それに「欲をしない」という、この三つが出来たら、人間は極楽だという御理解を頂いて、まあ腹は立てまい、愚痴は言うまいというふうにです、まあ欲をせずということは難しいから、この二つだけは、まあ実行しようと思うたのじゃなかろうかとこう。
 それで私は、昨日、そのことを取り上げて、申しましたことですけれども。時に腹を立ててもいい、時には愚痴を言うてもよい、けど、ゆとりのある、腹は立てとるごたるけど、心の底ではね、金光様が言われておったり。実は、ここに腹を立てんでもいいけれども、まあちょっと腹を立ててみるとか言うようなね、腹の立て方はよい、愚痴を言うてもよい、そういう意味において。
 けれども、お取次をさしてもらう先生方は、その二つは出来んでもよいから、ひとつ、「欲を捨てる」ということだけに、ひとつ本気で専念せなければいけませんよ。欲をするということは、こういうおかげにつながらない、こういう、何十年先生をしとっても、こういう結果にしかなりませんよという、事実を以て聞いて頂いた。
 人が助かるということは、勿論、自分自身も助からねばいけんけれども。というて、欲をせずということを、強調させて頂いたんですけどね。これは容易い、それは欲をせねばいいわけですねということだけど、実際はなかなか難しい。けれどもです、本当に、人が助かることのためには、欲を捨てなければ助からん、本当に。「腹を立ててもよい、愚痴を言うてもよいから、慾だけはいっちょ捨てなさいよ」そういう話をさしてもろうた。
 だから、これは、皆さんの場合なんかは、欲はしょうがないですが、欲はちっと位よかばってん、まあ腹は立てなさんな、愚痴は言いなさんなと、まあいうふうに言っておるわけです。
 例えば、この五十八節と五十九節から引用するとです、乞食だと言われても、泥棒だと言われても腹を立てない。そして、そういう時に、一段と信心を深めて行き、一段と信心の帯をして行くということを、お互いが聞いております。だからどれでも知っておる。どれでもわかっておるけれども、それに徹底していないということがです、この人だけはもう、これだけは安心と、安心してもらうものがない。知ってはおる、教えとるから。けれども、この人はこれだけはもう大丈夫と神様に安心してもらうということは、喜んでもらうということ。勿論、金光大神も喜び、自分もそれは、おかげを頂くことである。
 そういうものが、いずれかのものが、いよいよ自分のものにならなければ、教えを教えてもらっておる値打ちがないと。それを覚えておってということは、自分のものにしてということだと思うんです。自分の生き方の上に、血に肉になっておるということなんです。
あれもこれもと言うことはいらんから、これだけはというものをひとつ撤して頂く。信心とは撤することだと私は思う。私は思うのですけども。些細なことでもよいから撤して、自分もこれ一つ覚えとるから、どんな場合であっても。例えば「人の悪口を言うな、もし悪口を言うものがあったら、その場を逃げよ」とこう言われます。
 今朝の御教えも、もうこれならば絶対というようなものをです、何か身につけて行かなければ、覚えておってということにはならない。何かを自分のものにして行く。何十年、信心の稽古をさして頂いとるけれども、実際に、徹底して、これだけは自分のものになっているというものが、どの位あるか検討して、改めて、そのことに取り組まねばいけないと思うですね。
どうぞ。